5/15(日)復活節第5主日礼拝

招  詞 詩編8:1
交読詩編 96:1-13
聖  書 出エジプト記19:3-6
     ヨハネ福音書15:1-10 
説  教 「神様は農夫」
         川浦弥生 牧師
讃 美 歌  26(1)、196(1)、393(1.3)、92(1)  

<ことば> 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」イエスさまはぶどうの木で、神さまが農夫であるといいます。「まことの」という形容詞がついています。当時、キリストとはどういう方なのかをめぐって、意見の対立が起こりました。イエス・キリストがまことの人であったか、なかったかという理解の違いでヨハネ共同体を出て行った人たちがいました。イエス・キリストが人間であるのは仮の姿であり、まことの人ではないので、人間的な倫理的責任を負う必要はないと主張した人たちが、ヨハネ共同体を出て行ったという話です。これは今の言葉でいえば、社会的な責任をもとうとしないカルトの発想です。ぶどうの木のたとえは、その出て行った人たちも使っていました。そのため、ここでは彼ら出て行ったグループではなく、ヨハネ福音書の著者たちのグループが知っているイエス・キリストこそ、すなわち「まことの人」であり、「まことの神」である。人間として生きて責任を負い、苦労した方こそがいのちをもつ「まことのぶどうの木」であると主張しているのです。そして、「父は農夫である」といいます。父という言葉について考えてみる必要がありましょう。ずっと古くから中近東では、神が人類または特定の共同体の父であると言う考え方がありました。現代を生きる私たちはこのことをどう考えますか。