2022年1月30日公現後第4主日礼拝

招  詞  詩編124:8

交読詩編  30:1-13

聖  書  歴代誌上29:15-19

      マルコ福音書1:40-45

説  教 「神の憐れみをお示しになる」

      川浦 弥生牧師

讃 美 歌  26().497(1,3).509(1,3).92(1)

<ことば>   カファルナウムの会堂でイエスは人と神、人と人を分断する無関心を導く汚れた霊と対決し、その後、町や村で多くの病人を癒していました。会堂や神殿の中ではなくて、人々の生活の中で働かれることが、神のみ旨であったからです。そして、人里離れたところで祈っておられました。そういう時間がどうしても必要で、イエスを慰め、力を与えていたからです。私たちも同様に、心を静めて神さまの前に沈黙する時間が必要ですし、信仰は自分の心の中で終わるのではなくて、ここから送り出された場で真実のものとなります。人ひとりがキリストを信仰する者であるということが、なによりの証です。その働き方は私たちの思いを超えています。 さて、イエスは旅を続けている時に、律法の規定により排除されたひとりの人に出会いました。彼のほうからイエスに会いに来たのですが、律法ではそれは許されない行為です。皮膚の病気のある人をはじめとして、レビ記の規定に書かれた状態にあるならば、人に近づいてはならないからです。律法学者なら彼の行動に激怒したことでしょう。彼は清くしてほしいと願い出ています。イエスはそばに近づいても、触れてもいけないという律法に反して、手を差し伸べて、その人に触れました。「よろしい、清くなれ」という言葉よりも先に、まず手を差し伸べています。思わず体が動いたのでしょう。イエスはそばに近づいても、触れてもいけないという律法に反して、手を差し伸べて、その人に触れました。「よろしい、清くなれ」という言葉よりも先に、まず手を差し伸べています。思わず体が動いたのでしょう。これが神の憐れみです。