2022年7月24日 聖霊降臨節第8主日

招  詞  詩編95:1

交読詩編 119:105-112

聖  書 列王記上10:1-3(旧546p)

     マルコ福音書8:22-26(新77p)

説  教 「もっと大きな問い」

       川浦弥生牧師  

讃 美 歌*26、10(1)8(1,3)、475(1) 92 (1節のみ)

<ことば> イエスはベトサイダという村につきました。ベトサイダはヨハネ福音書1:44と12:21で、ペテロ、アンデレ、フィリポの出身地であることが紹介されています。ベトサイダと言う言葉は「漁師の家」という意味です。ペトロ、アンデレは漁師でした。この町はガリラヤ湖の北のはじにあります。そこで人々が一人の目の不自由な人をイエスのところに連れてきて、触れていただきたいと願いました。しかし、イエスは、盲人を村の外に連れ出し、人々と引き離そうとしました。なぜ、村から連れ出したのでしょうか。耳が聞こえず舌が回らない人を癒された時は、その人だけを「群衆の中から連れ出し」たのです。ただ人々から離れるだけならわざわざ村から出る必要はなかったと思います。しかし、そうしなくてはならなりませんでした。イエスを信頼しない人々の村だったからです。この世では思いがけないことが起こります。なんとしても納得のいかない不条理の事態に人が遭遇したとき、人は「なぜ」という問いを持ちます。これらの問いに、これまで人が積み上げてきた経験や知識による知恵は真の答えをもちません。当事者にとっての不条理の事態に対する現実的な答えは、それを少しずつ受容する以外にはないのではないでしょうか。受容するとは、問いを問いのまま受け入れることを意味しています。