2022年5月29日復活節第7主日
招 詞 詩編50:1
交読詩編 102:13-29
聖 書 イザヤ書45:5-7
ヨハネ福音書17:1-13
讃 美 歌 26(1).475(1).371(1).92(1)
<ことば>
イエスはしばしば「わたしの時はまだ来ていない」と語られました。「時が来た、というのは、人の気まぐれな欲望によって定められた時ではなく、神から定められた時だからである」とカルヴァンは言います。周囲の人にとって、今こそその時だと思われるような時にも、イエスは「まだ」と言われました。この違いはどこからくるのでしょうか。人はいつも自分の都合に合わせて時の良し悪しを定めようとしますが、イエスはいつも神の意思の実現という基準で考えました。神の意思、つまり、神の栄光です。神の招きが来ているのに、わたしたちはいつも自分の都合を優先して、それを断っていることが多いのではないでしょうか。
イエスにとって、この時はもう引き返すことができないという決断の時でした。13:1の告別説教の始まりには「イエスはこの世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、このうえなく愛し抜かれた」と伝えています。ああ、そうか、残り少ないと知ったイエスが最後にしたことは、弟子たちを愛しぬくことかと静かな感動があります。なにか立派なことをすることではありませんでした。イエスが望んだ栄光とは神さまのみ旨が実現することだけでした。それは、目に見える姿としては、敗北と挫折と離散の姿でした。誰かを愛しぬく深さというものは、人の目には見えません。