2022年4月10日復活前第1主日・受難節第6主日・棕櫚の主日
招 詞 詩編14:47
交読詩編 24:1-10
聖 書 マルコ福音書14:32-42(92p)
説 教 「 沈 黙 」
川浦弥生牧師
讃美歌* 26(1)、300(1)、575(2)92(1節のみ)
<ことば> オリーブ山のゲッセマネというところでイエスは、弟子たちにここに座っていなさいと命じられました。そして、あの3人、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて祈りの場へと行かれました。ここでイエスの自分との激しいたたかいが始まりました。「死ぬばかりの悲しみ」恐れによって祈られました。どんな悲しみなのか、それは詩編の42編によって私たちに伝えられています。詩編は「御顔こそ、わたしの救い」と祈ります。ヘブライ語の顔は、内面のことをも意味します。神が私に御顔を向けてくださるという時、それは神の御心が私に向いているという意味になります。ですから、ここで考えられるのは、イエスは神に内面の交わりを求めているということでしょう。私は苦しいのです、神さま、わかってください、と神さまの言葉を求められたといえます。「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈られました。でも、神さまは沈黙したままです。だからこそ、詩編の言葉のように「おまえの神はどこにいる」と人は言い、「なぜ、わたしをお忘れになったのか」と嘆くのです。神さまの沈黙については、いろいろな人がその意味を考えてきたことでしょうし、文学にも映画のテーマにもなっています。実際に助けてほしい時に祈っても何も起こらないということは、わかりきったくらいにあることです。答えは与えられないのでしょうか。神は沈黙しています。今日は沈黙についての言葉を捜してみました。ともに考えましょう。